卒業生(78回生)の皆さん ご卒業おめでとうございます

八代高等学校同窓会 会長 一親房

卒業生の皆さん、卒業おめでとうございます。そして、本日まで皆さんを支えてこられた保護者の皆さま、並びに日々教育に尽力してこられた先生方に、八代高校同窓会を代表して、

心よりお祝いと感謝を申し上げます。

皆さんはこれから、正解のない世界へと歩み出していきます。アルゴリズムが評価を決め、

数字が人の価値のように見える時代です。フォロワーの数。再生回数。「いいね」。そして、ときに起きる炎上。しかも、国境のないボーダレスの世界で生きていくことになるでしょう。

今日は、そんな皆さんにぜひ知ってほしい一人の陶芸家の話をします。

鹿児島県日置市東市来町美山に、約四百三十年前、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れてこられた陶工たちによって始まった薩摩焼の町があります。ここに、十五代にわたって続く沈壽官の窯元があります。陶工たちは高い技術を持ちながらも、島津藩独自の外城制度のもと、移動や婚姻を制限され、偏見の中で生きてきました。明治維新によって身分制度は廃止されましたが、「朝鮮系陶工の村」という見えない差別はその後も残り、人々を長く苦しめました。

明治になって、12代沈壽官は、薩摩焼に西洋の美意識を取り入れ、ウィーン万国博覧会、パリ万国博覧会で高い評価を受け、「サツマ・ウェア」として世界に知られる存在となります。伝承されてきた技が、日本を代表する工芸文化として認められた、大きな転機でした。

現在の十五代沈壽官は、その歩みをさらに加速させます。早稲田大学で学び、京都で陶芸を基礎から学び直し、1986年にはイタリアのファエンツァ国立美術陶芸学校に留学します。さらに1990年には韓国の金一萬(キム・イルマン)のオンギ(キムチなどを入れる甕)工場で修行し、韓国独自のオンギの文化を体得しました。彼はこの経験を、「自らの原点に戻る旅だった」と語っています。

一方で、彼の心には深い葛藤がありました。「沈」という苗字に対する違和感です。

今風に言うならば、不利な条件から始まったアカウントです。中学時代、民族的な出自を理由に受けた差別や暴力から、心に消えない傷が残り、家業を継ぐことにも強い抵抗を抱きました。「家業だから」「代々続いているから」という理由だけで、その生き方を受け入れることができなかったのです。だからこそ十五代沈壽官は、家名ではなく、自ら選び直した人生の道として陶芸に向き合います。肩書きに頼らず、一人の陶工として評価されたい。その思いが、彼を支え続けました。伝統の白薩摩、黒薩摩に現代的感性を融合した作品は、国内外で高く評価され、世界は次第に、作り手ではなく、作品そのものを見るようになります。その歩みの中で、彼は確信します。差別は、声高に否定するだけでは消えない。しかし、その道で本気で努力し、評価されれば、周囲の見方は必ず変わる――。「世界は、努力と真剣さを必ず見てくれる」。この言葉には、彼自身の人生が込められています。

沈壽官の窯の門には、日本と韓国、二つの国旗が並んで掲げられています。

それは、日本で生き、日本の文化として薩摩焼を発展させてきた歴史とその一方で、朝鮮半島にルーツを持つという出自のどちらかを否定したり、隠したりしないという明確な意思を表しています。どちらかを消すのではなく、すべてを背負って、このアカウントで生きるという覚悟です。違いを否定せずに人生を歩んできた、彼自身の証でもあります。

最後に、学び舎を巣立ち、世界へ羽ばたいていく後輩たちへ、贈る言葉があります。

「世界は、真剣に歩む者を必ず認める。」という言葉です

皆さんはこれから、国や文化の枠を越え、世界の第一線で活躍していくことでしょう。その中で、他民族からの偏見や差別に心を痛める場面が、必ず、出てくるでしょう。けれども、

自分の道で真剣に努力を重ね続ければ、世界は必ず、その姿を見てくれます。そして、あなた自身を、きちんと認めてくれます。その道の一流を目指すこと。不断の努力を惜しまないこと。それこそが、偏見を越え、自分の人生を切り拓く、確かな力になるのです。

十五代沈壽官が歩んできた道は、そのことを、私たちに教えてくれています。自分のアカウントを磨き、誇れる自分をつくること。

これからの人生は、あなた次第です。

本日は、ご卒業、誠におめでとうございます

令和8年3月1日